フェイスブックはフィクションだと思え!疲れないし、リア充に劣等感も覚えないための方法

この記事が気に入ったらシェアしよう!

 仕事上仕方なくフェイスブックをやらされた友人が憤慨していたのは、「フェイスブック上ではみんな楽しそうにバーベキューをしてやがる」ということだった。
 要するに、「人生楽しんでますアピール」の投稿ばかりであるフェイスブックに嫌気が差していたようなのである。

 なぜ嫌気が差すのか。
 その理由は、下記2点に集約される。

 ・自分も「人生楽しんでますアピール」の投稿をしなくてはならないとの強迫観念に駆られる
 ・そういった楽しそうな他人の投稿を見ると、人生楽しんでない自分に劣等感を覚える

 じゃあフェイスブックやらなきゃいいじゃん・見なきゃいいじゃん・退会しちゃえばいいじゃん、とは短絡的である。バッサリとそのような決断を下せる者もいるだろうが、大部分の人にとっては難題である。
 友だちの近況はなかなか気になるものであるし、友だちに変な心配を掛けたくない。
 我々は社会的な動物である。繋がっていたい。

 反面、ユーザーの間で「フェイスブック疲れ」が出始めているとも聞いて久しい。

 本稿では、どうすればストレスなくフェイスブックを始めとするSNSと付き合っていけるか、その考え方を提示していきたい。

 

大前提:フェイスブック上で見える生活と実際の生活は違う

 フェイスブック、ツイッターを始めとするSNSには、基本的にポジティブな投稿が並んでいる。俗に言う、リア充というやつである。爆発しろ。
 だけど、それを否定するのは短絡的というものだ。

 SNS上の人々の生活は幸福に満ちたものであるように見える。
 楽しそうな投稿がタイムラインに並んでいれば、さぞかし素晴らしい人生を送っているのだろうと思い込んでしまうのだが、実際にはそれは、彼/彼女の生活の一面でしかない。
 ついついそれを忘れてしまいがちだ。もちろん私も。

 旅行から故郷に帰ってくる度に驚くのは、人々のフェイスブック上での生活と、私に個人的に語る生活との間のギャップの大きいことである。彼らがフェイスブック上で語ったすばらしい休暇は、実は夫婦の離婚危機から逃れるための必死の試みであった、という。

 スタンリー・ジェームズ

 

なぜフェイスブック上にはリア充投稿が溢れるのか

ゆるい繋がりによる自己顕示欲

 フェイスブック上にきらびやかな投稿が並ぶのは、ゆるい繋がりに起因するための自己顕示欲のせいである。
 我々は、親しい人には弱みを見せることができるが、親しさを満たさない人の前では強がるのである。初対面の人の前で、自分はどれだけ立派な人間かを力説し、力を誇示しようとする者さえいる。

 それと同様で、SNS上の「友だち」の全員が全員において親しいわけではない。
 従って、我々は親しくない者が自分の投稿を閲覧することを想定して、自分をやや大げさに飾リ立てるのである。
 大人数でバーベキューをすれば、ここぞチャンスとばかりに楽しげな写真を撮り、投稿する。
 これなら「いいね!」もたくさんもらえるだろう。
 はい、リア充の出来上がり。

 

ポジティブな投稿をするしか手段がない

 あるいは、何か投稿するとして、ポジティブな投稿をするしか手段がないということも挙げられる。
 例えば、「今日は昼ごろに起きて、さらにゴロゴロして、仕方なく洗濯して、カップラーメン食べて、テレビを眺めて、寝ました。明日仕事やだなー」などという投稿をしても仕方ないのである。
 それを見た方もどうすればいいのかわからないだろう、という分別くらいは投稿者にもある。

 であれば、「初めて入るお店でランチを食べました」とか「友だちと話題の映画を観てきました」とか「バーベキューをしました」という投稿にならざるを得ないのである。
 投稿しないのならそれはそれで構わないのだろうけれど、投稿するならそういった投稿になってしまうわけであり、結局、タイムラインにはそういった投稿が並んで、見た目「人生楽しんでます」という感じになってしまう。
 望む望まざるに関わらず、リア充の出来上がり。

 

なぜリア充投稿に我々はイラつくのか

 フェイスブック疲れというのは、何かを投稿しなければならない義務感から来るだけでなく、他人の投稿がいちいち目に付いて、目を通さなければならないとの義務を感じてしまうことにも原因があるように思う。

 

本音で語り合いたい欲求を満たせない

 フェイスブック上でのコミュニケーションは、いわば飾り立てたコミュニケーションである。
 人生には楽しいことも辛いこともあるが、その楽しいことだけを切り取って提示し、コメントだの「いいね!」だのをしているに過ぎない。

 だけど、我々が最も親しみを覚えるのは、本音で喋ってくれる人たちではないだろうか。
 飾らずにありのままを語り合っているとき、そこに信頼が生まれ、親近感が湧き、コミュニケーションしているという感覚が生じるのだ。

 従って、フェイスブック上でのコミュニケーションでは、個人差はあると思うけれど、繋がりの欲求を満たすばかりか、疲れてしまうという人が出てくるのも自明と言えるかもしれない。

 いつも同じメンバーといると馬鹿になる!?「類は友を呼ぶ」(ホモフィリー)の危険とは?

 

自分の生活と比べて劣等感を覚える

 タイムラインに日々楽しそうで意欲的な投稿ばかり並んで、それを見せつけられると、自分の人生がつまらないような錯覚を覚えてしまうかもしれない。
 これも当然のことと言える。

 だって、相手は楽しかったことだけを切り取ってウェブ上に載せているわけなのである。
 それに比べ、自分の人生は楽しいことばかりじゃない。いいなぁ、毎日楽しそうで。

 劣等感を覚える必要なんてないのである。
 理由は2つある。

1. 実際に人生を楽しんでいるかどうかとは関係ない
 楽しそうな投稿が並んでいるからといって、彼/彼女の人生が実際に充実しているかどうかとは無関係であること。
 充実していそうにあなたに「見えている」だけ

2. わざわざ都合の悪い相手と比べている
 人は、自分の都合の悪い相手とわざわざ比較して劣等感を抱く習性がある。
 例えば、テレビでセレブの生活を見て、自分と比べてわざわざ劣等感を抱いたりしていないだろうか。
 劣等感を抱いたとしても、実際に劣っているかどうかとは関係がない。

 劣等感は克服する必要ない。誰も負け犬ではない心理学的理由とは?

 

フェイスブックはもちろん悪ではない

 とは言え、ゆるい繋がりが悪いわけではない。
 少なくとも人とのコミュニケーションの量で言えば増やすことができるであろうし、人脈を広げることにも繋がるだろう。

 自脈が広がれば、助け合うチャンスも広がる。
 何か困ったときに窮地に陥らなくて済むかもしれない。
 フェイスブックによって、気が合って生涯の友人と出会うかもしれないし、良き伴侶と出会うこともあるかもしれない。
 アラブの春のような大々的な民主化運動も達成できると証明されたことは鮮烈であった。

 

結論:投稿は全てフィクションだと思えばいいのだ

 もちろん、あまりにも嫌気が差すのならSNSの利用をやめればいいわけだが、それはもはや現実的な方法ではない。

 であれば、フェイスブック疲れに効く考え方は、友だちの投稿は全てフィクションだと思うことである。
 テレビドラマや映画と同じ。この物語はフィクションです。

 その友だちの人生だって、苦あれば楽ありに決まっている。充実した毎日なわけない。
 その楽しげな投稿も別に楽しくないのに楽しそうに装っているだけかもしれない。

 ということは、もはやフィクションと同じなのである。
 バーベキューをしたというのは事実かもしれない。だけど、それ以上でもそれ以下でもない。
 映画だって、ストーリー上都合の悪い部分は我々に見えないようになっている。

 facebookアプリで転職活動!?話題のswitch.にメリットはある?

 もう一度言う。
 楽しそうで、充実している風のタイムラインは全てフィクションである。
 そのタイムラインの隙間で夜も眠れなかったり、涙に濡れているかもしれないけれど、それは我々には見えないのだ。