類は友を呼ぶ。
確かに似た者同士は集まる傾向にある。
人は誰もが自分とよく似た人と一緒に過ごしたがるのである。
なぜなら、居心地がいいからである。
同じような考えの人が集まることで、共通の話題で盛り上がれるし、非難されづらい。
誰かの話に「そうだそうだ」とか「そうだよね」とか言っていればいいし、発言すれば皆が肯定してくれる。
仮に発言しなくても、わかってくれる。
これは社会科学では「ホモフィリー」と呼ばれる。「同質性」「似ているものへの愛」「同質結合原理」などと訳される。
似た者同士のいつもの仲間と寄り集まることは、居心地が良くて楽しいものである。
かけがえのない時間かもしれない。
だけど、落とし穴もある。
ハーバード大学のメディア調査員であるイーサン・ザッカーマン曰く、「ホモフィリーは無知を生む」。
ホモフィリーは無知を生む
肯定してくれる仲間と群れることの危険
人は、自分の意見が肯定されることを望み、否定されないように極力努める。誰でもそうである。
居心地の良い環境を作るためには、自分の意見を受け入れてくれる仲間を大切にし、反対意見を無視したり、反対者を排斥したりすることもあるかもしれない。
そうすることによって、そこにいるメンバーは同じ意見を持つ絆で結ばれたものとして強固に仕立て上げられていくのである。
だけど、そのホモフィリーの集団化には危険が孕んでいる。
反対する者がいないために、個々の意見が増幅され、過激な集団思考へと発展していく場合があるのだ。
なぜデモは過激化するか
おおよそデモが過激化し、逮捕者まで出る事態に発展してしまうのは、このホモフィリーによる集団思考のせいである。
最初はただ単に何かに反対するために集まっていただけなのに、皆が同じ意見だからと背中を押されて熱狂的になってしまい、良からぬ過激な行動へと誘導されてしまうのだ。
成人式が荒れるのもそう、アルバイト社員が冷蔵ケースの中に入ったところを撮影した写真をSNSにアップロードしてしまうバイトテロもそう、もうとっくに否定された学説を一生懸命証明しようと取り組む研究者学会もそう。
全ては同じ意見の者が寄り集まったがために集団思考が極端な方向へ誘導されてしまうせいである。
誰でも人は同じ意見の仲間を求める
新しい意見や異なる意見が入ってこないために、その集団は、あるいはその集団中の個人は無知化していく。
善悪の判別がつかなくなったり、自らを客観視できなくなったり、新しい意見を取り入れられなくなったりするためである。
馬鹿馬鹿しいと思うだろうか。
だけど、誰でも居心地の良い場所や同じ意見・価値観の仲間を探しているのである。
ホモフィリーの傾向は我々人間であれば誰でも持っているのだ。
インターネットはホモフィリー化を加速させる
検索のホモフィリー
インターネット検索は大変に便利なわけだが、なぜに便利かというと、自分の探した情報「だけ」が可視化され、すぐに手に入るからである。
かつての情報メディアである、例えば、新聞ではそうは行かない。興味のある記事・興味のない記事は読者各々あるだろうけれど、それぞれの見出しには一旦目を通さなくてはならない。興味のない意見を完全にシャットダウンするということはできなかったわけである。
インターネット検索は違う。自分に必要な情報だけを厳選して集めることが可能なのである。
世間で何かひとつの問題が起きれば肯定意見・否定意見が出てくるのは自明だが、その問題について検索で調べようと思えば、肯定意見だけが検索結果に出てくるように検索をかけることもできるし、否定意見が出てきても読まなければいい。
第一、肯定派であれば、それを肯定するような記事しか目を通さない傾向にある。私もそうである。
そうなることによって、肯定派はますます肯定意見を信じるようになってしまい、否定派の意見に耳を貸せなくなっていく。
SNSのホモフィリー
SNSにおいて、その傾向は顕著である。
気の合う仲間だけを手軽に集めて、繋がっておくことができる。鬱陶しい者が出てくれば、他にプライベートグループを構築するとか、ブロックしてしまうとか、無視するとかしてしまえばいい。ホモフィリーの構築が容易なのである。
もちろん、facebook上で市民が団結して独裁政権を打倒した「アラブの春」のような事例もあるので、一概に悪いとは言えない。
また、気の合う者と気軽に繋がっていられることで安心できる、孤独が癒やされるという人もいるかもしれない。
だけれども、SNSにおけるコミュニケーションは、自分の世界の内側だけで構築されたものになりがちであるということは、覚えておくべきであろう。
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IT時代において重要なのは情報の取捨選択だと叫ばれて久しいが、私見では取捨選択よりも、多くの情報を偏りなく平等に取り入れることの方が重要であると考えている。
ショッピングサイトにおけるホモフィリー
なぜショッピングサイト、と思うだろうか。
高度なアルゴリズムが構築されているショッピングサイト、例えばAmazonやiTunesなどは、「あなたにおすすめの商品はこちらです」とか「この商品を買った人はこちらも買っています」とかおすすめしてくる。これを「協調フィルタリング」と言う。
必ずと言っていいほど興味深い商品がおすすめされてくるのは、ホモフォリーを基本としているからである。
これは大変に便利な機能であり、私にとって嗜好性の高い本がおすすめされてくることで、まだ知らない面白そうな本との出会いになることが非常に多い。
YouTubeにおける関連動画も、この協調フィルタリングを一部利用しており、見たい動画が次々に推薦されてくるのだった。
提案:ホモフォリーから抜け出したところに幸福はある
類は友を呼ぶ。
そこは確かに居心地が良いし、冒険なんてしなくていい。安全が保証されている。
YouTubeのおすすめ動画を観ていればとりあえずはハズレはなさそうだし、Amazonではこれが売れているからとりあえず買っておけば間違いなさそうだ。
だけど、そのホモフォリーの内部に幸せや喜びがあるのかどうか、ということはまた別の問題である。
居心地の良さから抜け出してみて、自分の可能性を広げていくことも、楽しみや喜びのひとつではないだろうか。
例えば、恋愛の定義のひとつとして、「恋愛とは、二人の異なる価値観をお互いに受け入れていく過程である」というものがある。
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似た者同士の二人が何も言わずにだらりと暮らしていくのも幸せの一つの形であろう。
だけど、それだけが正解じゃない。
決して似ていない二人がお互いに意見を言い合って、お互いを尊重し合って、許し合いながら、それでも二人で生きていくというのも、大きな喜び、至福の形ではないだろうか。
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