私の知り合いに「話してスッキリすることもあるから、愚痴でも何でも誰かに話したほうがいい」というのが信条である者がいる。
話すことというのは我々にとっての基本的なコミュニケーション手段であるから、「話すこと=善」であるとみなしているようなのだった。
愚痴や不満でさえも誰かに話したほうが良いのだ、と。
その人がとても明るく誰からも好かれるような性格であることもあって、他人とあまり話したいと思うことのない内向的な私にとっても、「なるほど」と思わせるに充分だった。
しかしである。それに真っ向から対立する見解もある。
ウィル・ボウエン氏はその著書『もう、不満は言わない』の中で、「21日間だけ不満を言わないようにしてみよう」と呼びかけている。
この著者が必ずしも「話すこと=善」であると考えていないことがわかる。
「何を話してもいいけれど、不満を言うのだけはせめて21日間我慢してみよう」と言っているのである。「愚痴や不満を口に出すこと=悪」なのだ。
不満や愚痴は誰かに吐き出したほうがいいのか、それとも、口に出さないほうがいいのか。
戦いが今、始まる。
愚痴ったほうがいい派の見解
外向的な人はコミュニケーションを取ることでエネルギーを回復する
人の性格を大雑把にわけるとすれば、「外向型」「内向型」の2種類がある。耳にしたことがあると思う。
「外向型」とは、人と関わることでエネルギーを充電することができる人のこと。
それに対して「内向型」とは、一人にならないとエネルギーを充電できない人のことである。
私などは極端な内向型なので休日は絶対に一人で過ごしたいのだが、世の中には、全ての休日が友だちと遊ぶ予定で埋め尽くされていないと気が済まない人もいるようで、私にしてみれば「彼ら/彼女らはいつゆっくりと休息を取るのだろうか」とかねがね不思議に思っていたのだった。
なんてことはない、外向的な彼ら/彼女らは友だちと遊ぶことが休息と同義だったのである。
となると、外向的な人は、不満や愚痴を周囲の人に話す・聞いてもらうことがストレス発散において大切な時間となっていると考えることができるのだ。
もちろん、愚痴らないコミュニケーションという手段もあるだろうけれど、不満を話してスッキリさせ、明日への活力にすることは必ずしも咎められることではないとも考えられるのである。
愚痴もコミュニケーションであり、その人のことを知る手段である
そもそも人は、人と関わらなくては生きていけない生存戦略を採用している動物であるので、いろいろな性格の人がいるとはいえ、その人のことを理解する・自分のことを理解してもらうためには、本音で話すことも重要になってくる。
愚痴ばかり聞かされるのは嫌だけれど、愚痴もコミュニケーションの一つとして確かに機能するのだ。
不満ばかり言っている人はどうかと思うけど、一つも不満を言わない人というのもどうかと思ってしまう側面はないだろうか。
愚痴を言わない人には「立派な人」「自立している人」という印象を受けるが、反面、「近寄りがたい」「何を考えているかわからない」「逆に信頼出来ない」というネガティブなイメージも残すこととなる。
従って、絶対に愚痴や不満を言わないことは一見崇高なことのように思えるけれど、人と人とのコミュニケーションという観点から見ると、手放しで絶賛できるものでもないのではないか。
愚痴らないほうがいい派の見解
愚痴を言わないようにすることで、不満を感じなくなる
ネガティブな感情は、外に吐き出すことによってさらに増幅されることが複数の研究によってわかっている。
怒りは発散することによって更なる怒りを生み、不満は誰かに話すことによって更に深化してしまうのである。
心配事を人に聞いてもらっている時に感情が高ぶって泣いてしまうことがあるのは、そのためである。自分でも制御不能になってしまうのだ。
であれば、愚痴や不満を敢えて口に出さないという修練を積むことによって、それらネガティブな感情を自分でコントロールできるようになり、やがて不満を感じなくなるというのも頷ける。
八つ当たりや愚痴は逆効果。仕事のストレス、本当の解消法とは?
愚痴は物事を変えるための手段ではなく、その代替に過ぎない。だから意味がない
愚痴の本質である。
我々が何かに不満を感じている時、再優先ですべきことは改善である。その不満の原因を取り除くことによってのみ、不満は解消される。
だけど、我々はなぜかただ愚痴ることに終始してしまう。
もちろん、社会人たる我々であるから、申し立てることのできない物事はたくさん存在する。変えられないもの、言えない人。
確かにわいわいと集まって言い合う愚痴は楽しい。
だけどそれは、問題解決とは何の関係もない単なる代替手段に過ぎない。
我々が何かを愚痴る相手は、それを聞いても何もできない人なのであり、本当に物申したい相手ではない。
そう、愚痴を言っていても、永遠に変わらないのだ。
【実践】私が愚痴を言わないでみた結果
上記に述べた、「ネガティブな感情は吐き出すことによって増幅される」ということを知ってから、私は愚痴や不満を言うのをやめてみた。
その時は、私にとって仕事のストレスがやんごとない時期で、日に日に愚痴や批判の口調が荒くなっていることに自分でも気づいていたので、チャレンジしてみる甲斐があるかと思って始めてみたのだった。
1週間ほど経って気づいたことは、確かに以前ほどイライラしなくなったことであった。
かつてなら憤慨していたことであっても、「そういうものだ」と思えるようになっていたのだった。
だけど、ストレス自体が減ったわけではないようにも思う。
確かに愚痴を言うことによって不満は増幅されるかもしれないけれど、愚痴らないことによって「不満を誰にも言えない不満」という新たな不満が生まれたようにも思う。
それに、愚痴ることは問題解決とは何の関係もないけれど、愚痴らないことも問題解決に直接繋がるわけではないのである。
要するに、「愚痴らないこと=じっと耐え忍ぶこと」に他ならない。
やってみた私の結果。
愚痴らないことによって実践当初、攻撃性は明らかに減った。
だけど、ストレスは増えたとも言えないが、減ったとも言えない。
うーむ。
まとめ:不満や愚痴とどう付き合うか
本稿における私の結論としては、下記の2点を挙げたい。
適度に愚痴ることが推奨される
不満ばかり言っていることは、精神衛生的にも人間関係的にも良くない。だけど、全く愚痴の一つも言わないというのも、精神衛生的によろしくないのではないか。
愚痴を言うことを推奨しているわけではない。言いたくなければ言わないに越したことはない。
だけど、不平不満を言いたいのなら、適度であれば許されるはずだ。
絶対に不満を口にしてはいけないとの禁忌を自分に課すことは、逆にストレスになりかねないと思った。
どうすれば問題が解決するかも話し合おう
ただ、愚痴ばかり言って問題の本質が改善されないままなのもどうかと思うのだった。
不満を言い合うことが好きな人同士が集まって愚痴合戦をしているのならいいけれど、そうでない人も中にはいるはずだ。
私などもそうで、最初は愚痴り合ってスッキリするのだけれど、それが長期化してくると飽きてきてしまうのだった。
そろそろどうすれば解決できるか生産的に話し合わないかい、という気分になってくる。誠に勝手だが。
問題は解決するためにある。それによって不満も解消される。
愚痴る機会の半分は、解決のための建設的な意見の交換の場にしてみてはどうだろう。
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