このまま人工知能が地球を覆い尽くすことによって人間の仕事がAIに取って代わられるかもしれないと警鐘が鳴らされているのを2015年頃から特によく耳にするようになってきました。
巷では「仕事が奪われる、職をなくしてしまう」と危惧する声が聞かれ、経済誌では「人工知能に仕事を奪われる人、奪われない人」「人工知能に仕事を奪われないためのスキル」みたいな特集が組まれているのも見かけたことがあります。
人工知能によって仕事が奪われる。人工知能のせいで失業する。職が少なくなる――。私に言わせればナンセンスです。
人工知能やAIに人間が仕事を奪われることなんてないであろうことは歴史が証明するところです。正確には、人工知能に人間の仕事が奪われたとしても、求人が少なくなったり、街に失業者が溢れたりなんて極端なことは起こりえません。
むしろ、人工知能は人間の仕事における負担を軽くし、正確な補佐をしてくれるものになると考えます。従って私は何の心配もしておりません。以下、私の見解を述べていきましょう。
歴史上テクノロジーによって人は失業したか? 答えはノー
産業革命の例
人類にとってその職を脅かし得るエポックメイキングな事象は人工知能が初めてではありません。
例えば、18世紀後半の産業革命。それまで人間の手で行っていた作業が機械化され、効率的に大量生産が可能になりました。で、機械が産業の中枢になったからといって人間が失業したかと言えばそうではありません。もしかしたら職人は職人としての地位は危ぶまれたかもしれませんが、世の中から人間の仕事が減ったわけじゃない。
むしろ、産業革命の機械化による大量生産・大量消費によって労働者の長時間勤務が深刻な問題になったということは、むしろ人の仕事自体は増えたと考えるべきであると思います。
コンピュータの普及の例
1990年代後半、IT革命によってパソコンが急速に普及して一家に一台、会社では一人一台というのが当たり前になりつつありました。コンピュータは人間よりも高速に複雑な処理を行うことができます。で、コンピュータの普及によって失業率が劇的に増えたという話は私は聞いたことがありません。
同様にして、インターネットによって私たちの暮らしや仕事は激変し効率化がなされましたが、その効率化された分だけ求人数が減ったという話は、これまた聞いたことがないのです。
つまり、私の結論としては「歴史上、テクノロジーによって求人数が減ったことは一度もない。だから、人工知能によって失業率が激増することもないに違いない」ということになります。
私たちの負担が軽くするための人工知能
むしろ、テクノロジーは私たち人間の負担を軽くしてくれる有用なものであると考えます。
テクノロジーは少ない労力での大量生産を可能にし、命に関わる危険な仕事を人間の代わりに機械に代替させました。いちいちそろばんを弾いて算出していた仕事はエクセルシートで一瞬にして完成し、わざわざその足で届けていた資料はクラウドで共有されるようになったのです。
例えば、一日中そろばんを弾きながら間違いがないか何度もチェックする仕事とエクセルシートで正確に算出されるのを最終チェックする仕事では、私は後者の職に就きたい。もっと言えば、直接に命や健康の危険に晒される仕事よりも、人間ではリスクが高すぎるその作業をやらせている機械を座りながら監督する仕事を選びたいと思うのは当然のことではないでしょうか。
機械が発明されていなかった頃の農業はブラック中のブラックな仕事で、かなりの重労働である上に作業中に命を落とす人が絶えなかったと聞きます。ですが現在、機械化のお陰で農作業中に危険に晒されることも少なくなり作業者の負担もかつてとは比べ物にならないほど軽減されています。
このように機械やITなどのテクノロジーは人間の仕事を奪うものではなく、人間の仕事を簡単にし負担や危険を軽減させてくれるものであると考えるのが妥当であると思います。もちろん、来たるべき人工知能という名のテクノロジーも例外ではないでしょう。
人類は新しい仕事を次々と生み出していく
もちろん、イギリスの研究者シリル・ノースコート・パーキンソン教授いわく「人間の仕事は与えられた時間の限り増えていく」というように、テクノロジーによって仕事の効率化がなされたからと言って人間の労働時間が短くなるということには繋がりません。これも歴史の証明するところです。
しかし、それは考えようによってはテクノロジーによって効率化された分だけ、人は新しい仕事を次々に生み出してきたということではないでしょうか。
現在の資本主義経済においては、存在する仕事の殆どが本質的には不要なものであるという考え方があります。例えば、宅配ピザ屋なんて存在しなくても人は生きていくことができます。だけど、誰かが「ピザを宅配する仕事」という新しい仕事をわざわざ作り出して世に問い、ニーズを広げたがためにそこで働く多くの人が存在するというわけです。
このように今後も様々な新しい仕事は増え続けていくでしょう。従って、今後人間の仕事がなくなるということは考えづらいのです。
なぜ人工知能の普及に伴う失業を人は恐れるか
ではなぜ人は「人工知能に仕事を奪われる」と必要以上に危惧してしまうのでしょうか。それは変化を嫌い、安定を求めるからであると考えられます。
未知の新しい事象にそのような危惧を感じ将来を憂えてしまうのは自然なことであり、これも歴史上で繰り返されてきたことです。産業革命期のイギリスでは同様に「機械に仕事が奪われる」と危険を感じた手工業者が機械を手当たり次第に破壊して回る「ラッダイト運動」と呼ばれる暴動を起こしました。
時を経て現代、IT化が急速に進む中においても雇用が奪われると懸念する考え方があり、それは「ネオ・ラッダイト」と呼ばれていると聞きます。テクノロジーの発展・革新を阻止しようと試み、できるだけIT機器を使用しないようにするという動きです。
機械を破壊したりITテクノロジーにおけるイノベーションを阻止したりすることと人間の雇用機会とは、言うまでもなく何の関係もありません。前述の通り、テクノロジーによって人類の失業率が増大した例は一度もないからです。ラッダイト運動は悪あがきでさえなく、全く見当違いな行動であると私は考えます。
仕事は奪われるかもしれないけれど、仕事がなくなるわけじゃない
もちろん、手作業よりも機械作業のほうが効率的であることは自明です。同じ時間でも機械のほうがより多くの仕事を正確に行うことができます。であれば、手工業者は淘汰されても仕方ないでしょう。現在、そろばんのエキスパートが市場において淘汰されてしまっているのと同じです。
しかし、それは時代の流れとして仕方のないこととして受け入れるべきであると思います。人類の向上心と創意工夫によって技術は革新されるし、流行は巡り巡ります。世の中は確実に便利になり、危険は少なくなっているのです。
当然ながら「現在は便利過ぎだ。のんびりしていた昔はよかった」というノスタルジーは無用です。そんなことを嘆いてもそろばんが主流だった時代は返ってこないし、鋤と鍬で畑を耕していた頃に戻ることはできない。私たちはこの時代を生きていかなければならないのです。
現在の仕事はもしかしたら人工知能に淘汰されるかもしれません。だけど、仕事自体が世界からなくなるわけではないことは歴史が証明しています。人工知能に仕事を奪われたからといって、失業した上に貧困にあえいで餓死するなんてことは絶対に起こらないと断言できます。
変化を恐れるな、変化に適応しよう
人々が恐れているのは「変化」それ自体であるように思います。そしてそれは、時流に伴って自分自身の考え方ややり方を変化させていくことを拒否していることをも意味しています。
コンピュータの登場によって一瞬にして複雑な計算ができるようになることを恐れる人は、「仕事の負担が軽くなる、ラッキー」と考えるのではなく「そろばんを弾く自分の仕事がなくなるかもしれない。なんとなくヤバい事態になりそうだ。コンピュータなんて壊してしまえ」と漠然と考えてしまう傾向にあるということです。
現在、そろばんを速く完璧に使える人よりも表計算ソフトを使える人のほうが就職・転職市場における価値が遥かに高いことを見てもわかるように、「コンピュータを破壊すること」ではなく「コンピュータに慣れ親しむ」ことに合理性があったことは自明です。同様にして「インターネットを拒絶する人」よりも「インターネットを受け入れて進んで利用する人」のほうがより多くの情報を取り入れることができるという意味では圧倒的に軍配が上がります。
であれば、現在、人工知能という未知のものに対する私たちの態度は決まっています。少なくともそれは「人工知能・AIを敵視すること」という態度ではないように思います。
心配しても仕方ない
現在、一人一台のコンピュータ(スマホを含む)を使いこなし、インターネットに接続することがいちいち意識しないくらいに当たり前になっている世の中ですが、将来は同様にして人工知能と共に過ごすことが日常になっているのかもしれません。それがどのような未来で、どのようなメリットがあって、私たちにとってどのような損失やデメリットがあるのかは誰にもわかりません。
誰にもわからないということは、心配しても仕方のないことであるということです。「人工知能に仕事を奪われるかもしれない。よくわからないけどなんとなくヤバい」とわけもわからずにオロオロするよりも、人工知能という存在を友好的に意識しながらも不確実なことには動じずに自分にとっての目の前の仕事を淡々とこなしたほうがよっぽど生産的であると私は考えます。
自分の頭で考えて変化に向き合おう
下記「自分の頭で考える」ための最良のテキストのひとつである『知的複眼思考法』から引用します。1996年に世に問われた書籍ですが、その考え方の本質は今でも変わりません。「情報化・IT革命の時代」を「人工知能・AI革命の時代」と読み替えれば、今の時代への警鐘として意味が通じるでしょう。
たとえば、「今は情報化の時代だ、IT革命だ」といわれています。このステレオタイプにとらわれてしまうと、「情報化時代だから、コンピュータくらい使えなければ……」とか「インターネットのことも知らないと時代遅れになる」といった、一種の強迫観念だけがつのることでしょう。焦ってパソコンを買ったのはいいけれど、使えなくて、ますます焦りがつのってしまう。
(略)
「情報化・IT革命の時代」の意味は、人によってそれぞれ違うはずなのです。つまり、「情報化・IT革命の時代」というステレオタイプを鵜呑みにしないで、自分とのかかわりの中でそれがどのような意味を持つのかを冷静にとらえ直してみる。そうすることで、自分なりの対応も決まってくるのです。ところが、自分なりのとらえ直しをしないまま、「他の人と同じ」発想を続けていると、自分にとって本当は何が重要なことなのかが見えなくなる。
『知的複眼思考法』(苅谷剛彦著、1996年)
そう、ひとつ言えることは「人工知能が来るぞ、大変だぞ」という雰囲気に飲み込まれることなく、自分の頭で判断することが肝要であるということです。
少なくとも人工知能によって私たちの多くが職を失い、貧困にあえぐようなことにはならないと私は確信しています。であれば、来たるべき人工知能革命とどう向き合うか、どのように適応していくか、時流や風評に流されることなく自分の頭で考え、自分なりのスタンスを柔軟に保っておくことが肝要であると考えるのです。
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