社会に出てからの罵詈雑言の一つに「勉強ができても社会に出たら何の意味もないんだぞ」というのがあります。これには二つの意味が内包されているように思います。
・学業成績と仕事の成果には何の関係もない
・社会人として成果を挙げるためには行動力とコミュニケーション能力が求められる
私が新卒で入社したスーパーマーケットにおいても「勉強ができても社会に出たら何の意味もない」論を振りかざす者は多く、「これだから大学卒は駄目なんだ」と良く言われたものでした。世間知らずの私は「ああ、自分は駄目なのか」と意気消沈することも多かったです。
ですが、よく考えてみれば「勉強ができるのは一つの才能」です。同じ教室という空間の中にいて、等しく授業を受けているにも関わらず「学業成績が良い」のですから、それは才能以外の何物でもありません。同様にして、学生時代にはスポーツが飛び抜けてできる人もいましたが、それも一つの才能でしょう。にも関わらず「スポーツができても社会に出たら何の意味もない」とはあまり言われません。
本稿においては「勉強ができても社会に出たら何の意味もない」というのは偏った見方であることを示すことを目的としています。かつての私のように社会に出てからそのように言われて落ち込んでいる人がいれば「落ち込む必要はない」ということを明確にするものです。
1. 学業成績が良いのはそれだけで一つの才能
前述の通り、同じ教室で同じ授業を受けていても学業成績に優劣が見られるというのは、勉強ができる人には「勉強の才能がある」ということに他なりません。おおよそ勉強ができる人というのは、塾に通わなくても、予習復習を全くやらなくても成績が良いことが私の経験上、観察されています。
逆に、成績がよろしくない人の中には、塾に通い、予習復習をしっかりと行い、宿題を忘れずにこなしながらも全く勉強ができないというケースもかなり散見されます。
体育の授業で生まれながらにしてスポーツの才能があった人がスポーツについてはある程度の自信を持っているように、勉強がある程度できた人はまず「勉強ができた」という事実に自信を持つべきであると私は考えています。「勉強ができても社会に出たら何の意味もない」というのは詭弁以外の何物でもなく全く意味も根拠もない言説であると捉えて、自分に自信を持つことです。
2. 学業成績が良い=集中力、記憶力、思考力が高い=問題解決能力が高い
『内向型人間のすごい力』(スーザン・ケイン、講談社+α文庫)によれば、高校時代になると内向的な人の学業成績は歴然として高まり、大学への進学率も高くなる傾向にあると検証されています。内向的な人は傾向として「集中する能力に優れている」「失敗を記憶しておくことによって反省し、次に活かすことができる」「億劫がらずに深く考えることができる」という特徴があり、そのことが学業成績を押し上げるのです。
・集中する能力に優れている
・失敗を記憶しておくことによって反省し、次に活かすことができる
・億劫がらずに深く考えることができる
この特徴を一言で表せば「問題解決能力が高い」ということになります。物事の本質を捉えて、根本的に解決することのできる能力を有しているということです。
反面、内向型の人は「本質を捉えるためによく考えてから行動する」という長所ゆえに、「行動力に乏しい」「コミュニケーション能力に乏しい」との誹りを受ける場合もあります。それがせっかちな上司の目には「勉強ができても社会に出たら何の意味もない」と映るのでしょう。
つまり、裏を返せばその上司は「問題解決能力が低い」人物であるともみなせるでしょう。「問題解決能力が高い」私たちは「問題解決能力が低い」上司の言うことなんて真に受ける必要は全くありません。
3. 勉強ができたことに自信を持てた私の社会人経験
私は自分で言うのもなんですが、全く勉強をしなくてもそれなりに学業成績は良く、受験勉強も殆どしないで大学へ進学したのですが、行動力とコミュニケーション能力には極めて乏しく、新卒新入社員の頃は「最低の新入社員」だの「ボンクラ」だの散々な言われようでした。
ですが、入社して1年後、人事異動によってある程度の仕事を任されるようになると、新天地での評価は少なくとも「ボンクラ」ではなく「頭の良い人」とみなされるようになりました。私はこれを勉強ができる才能によるものであると考えています。
スーパーマーケットの仕事は「思考力」よりも「行動力」が圧倒的に求められます。考えている暇があったら何か行動をしたほうが評価されるという場所です。殆どの仕事はそうかもしれません。ですが、新入社員の頃、何も行動をしなかった私は何もしていなかったわけではないのです。
周囲をよく観察し無意識のうちに何かを考えていたのです。無鉄砲に行動こそしなかったけれど、学んでいたのです。人の話をよく聞いて理解しようと努めていたのです。他の新入社員が何も考えずにとりあえず行動して「あいつは頑張っている」という全く論理的でない評価をされている間に、私は評価こそされないものの、仕事の仕方の最適解を頭のなかに構築していたのです。それが発揮されたのが、新天地においてある程度の仕事を任され自分のやり方でやってみたときだったのでした。
私はこれ以来、学業成績が良いことは一つの才能であることを確信し、自分に自信が持てるようになりました。授業を聞いているだけで成績が良いということは、効率良く学びそれを自分のものにする能力に長けているということです。
新しい仕事を任された時や新しいことにチャレンジする際、「自分は学ぶ才能があるのだから、心配しなくてもそのうち人よりも短期間で上手に出来るようになる」と楽観的に考えることができています。で、殆どの場合、実際にそのようになっています。
まとめ:「勉強ができても社会に出たら何の意味もない」という職場はあなたに向いていないのかも
「勉強ができても社会に出たら何の意味もない」とやかましく言う職場は、勉強や学習能力を軽視し、学びに繋がらない表面的な行動力や本質を捉えない空虚なコミュニケーション能力を重視する職場であると言えるかもしれません。
私は少なくとも「勉強ができても社会に出たら何の意味もない」とは思いません。これまでの社会人生活においても誰かが「あの人は頭がいいけど仕事ができない」と揶揄されたり陰口を叩かれたりしているのを見かけたことがあります。
それはつまり「その仕事に向いていない」と言うことです。間違っても「仕事ができない駄目人間」ではなく、たまたまその仕事は優秀なあなたに向いていなかったというだけの話です。自分を責める必要なんて全くありません。
「割れ鍋に綴じ蓋」(誰にでもお似合いの相手がいる)という諺があるように、誰にでも向いている仕事があると私は考えています。探してもないなら自分で作ってもいいでしょう。賢いあなたになら何だってできると私は信じています。
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