就職活動が難航し、なかなか内定を勝ち取ることができない不安と焦燥と失意の中で、うつ病など心の病を患い、自殺してしまう学生も出ていると聞く。実際に自殺してしまう人は一握りであろうから、絶望の中で死にたいと思っている人だけでもかなり多いと想像できる。
実際に自ら死を選ぶことを実行してしまうか、思いとどまるかは、運であると私は考える。
私も、過去にそういった思いを募らせて、もう駄目だと思ったことが何度かあるが、今、運良くここに生きている。
死のうと思っていたがやめた、というのは、例えば、たまたまその日に友人から電話がかかってきて出かける約束をしてしまったとか、たまたまついていたテレビがおもしろくて笑ってしまったからとか、月が綺麗だったからとか、今日じゃなくてもいいかとなんとなく思ったからとか、そういった些細なきっかけからだと思う。
問題なのは、将来の不安のあまり死のうと思っている人が潜在的に少なからずいること、しかも、これからもしかしたら素晴らしい人生が待っているかもしれない(そうじゃないかもしれないけど)若さで絶望してしまうこと、就職活動などというある種どうでもいいことに絶望してしまうことである。
もちろん、当人にとっては就職活動は極めて重要である。少なくとも私の学生時代の態度よりは、皆、必死に行っていることは想像に固くない。私はやる気のない学生だった。
だけど、私がたった30数年だけれど生きてきて思うことは、「人生どうにでもなる。答えはひとつじゃない」ということに尽きる。
人生、新卒で就職活動に成功することが全てじゃない。だから、死ぬ必要などどこにもない。
私の人生を振り返って
私は学生時代、就職活動をほぼしなかった。何だかよくわからなかったし、働くのが嫌なと思っていた。
親しい友人の一人は、セミナーやら合同説明会やら応募やら面接やらと一生懸命に就活していた。就職氷河期ではなかったが、それなりに厳しい状況には変わりなかった。
友人はようやく一社に内定をもらったらしい。地元のスーパーマーケットである。私は依然として就活さえしておらず、家で映画ばかり見ていた。
ある日、その友人から言われた。
「お前は人生なめてる。就活しろ。卒業した後どうするつもりだ。俺が受かった会社の最後の募集がある。受けろ。絶対だ」
果たして私はその会社を受け、運良く内定をもらい、二年半後、度重なる異動と長時間労働、体育会系のノリが気に入らず、逃げるように会社を去った。
半年後、次に私が就職したのは、農業法人だった。ど田舎の零細企業。若かった私は運良く内定をもらった。
しかし、一年半後、やはり心を病み、逃げるように退社した。
二年間の、傷病手当金と失業手当を受け取りながらのニート生活の後、失業手当がもうすぐ切れるどうしよう、という時に友人から誘いを受けて、今の会社に入社。本当に運が良い。
年収はかなり減った。結婚も半ば諦めている。だけど、ストレスが少ないので良しとしている。
つまり、人生どうにでもなっている。
飽きっぽい私のことだから、今の仕事も嫌になるかもしれないし、経営が危ないと聞いているから、先のことはわからない。
だけど、高い水準の生活を望まなければなんとかなると思っている。少なくとも生きていくことはできる。
「人生なめてる」と思うかどうかは、その人次第である。
私の友人たちの例
私に入社を勧めたA氏
最初に入社した会社に勤続。365日連続出勤や、上司に完膚なきまでに誹謗されたりしながらも、同期ではいち早く出世した。30歳で結婚。教科書通りの人生である。悪い意味じゃなく。
大学の友人B氏
こちらも新卒入社企業に勤続。33歳で結婚。こちらも、当人から見ればいろいろあったのだとは思うが、傍から見れば教科書通りの人生。
新卒で娯楽施設に就職したC氏
新卒での会社を一年半で退職。労働環境が劣悪だった。
その後、再就職し、営業で頭角を現す。今や若くして店長。月収50万円とか吹聴しているが、なんか飽きてきたので人生を一回リセットしたいと言っている。
家業を継がなければならなかったD氏
持ち前のパンクスピリッツで、大学卒業時、家業を継がないことを宣言。就職に伴い県外に引っ越すが、なんか嫌だと言って一年半で退社。地元に戻る。
その後、家業を継ぐかと思いきや、なぜか選挙に出馬。当選。それに伴い結婚。選挙になんて出なければ良かったと言いながら、代議士をしている。
つまり、いろいろな人生があって、思いがけないことも起こったりして、皆なんとかなっている。
人生の醍醐味は、思いがけないことが起こることであると、個人的は考えている。
大人の言うことを聞くな
今と昔は状況が違う。
我々の就職指導をする大人は皆、終身雇用が当たり前の時代を生きてきた。その神話が崩壊しつつあるのはご存知の通りである。
一生懸命仕事することが報われる時代はとうに終わった。
だから、就職が馬鹿げているというのではない。
新卒で大手企業に就職することが、人生が順風満帆に運ばれることを約束することには、必ずしもならないということである。
新卒で大手の就職先から内定をもらわなければならないと考える周りの大人や、それに感化された周りの友人たちや、経済誌が発表する「上場企業年収ランキング」みたいなものや、その他マスメディアが撒き散らすきらびやかな情報に、いちいち振り回される必要なんてない。
新卒でそれなりの就職先を見つけなければ順風満帆な人生を送れない、なんてことはない。そういった考えに固執する必要もない。
時代は変わっている。今は高度経済成長期ではないし、バブルでもない。
だから、そういった古い考え方に振り回されるのはもうやめよう。過去の栄光に基づいた話なんて聞かなくていい。
就職戦線に敗れて、新卒フリーターでもいいじゃないか。ニートだって構わないと私は思う。人生はそこから始まる。
まずは、そういった呪縛から解き放たれてみれば、少しは楽になるのではないだろうか。
就職がゴールではないのだ。スタートでさえない。
人生は、考え方によってはいつだってスタート地点である。遅すぎることなんて何一つないと私は考えている。
大企業に入って安定した収入を得ることがゴールではない
懸命に就職活動をしているさなかであれば、もちろん自分の志望する企業から内定を獲得すること、公務員志望であれば公務員になることが一応のゴールとはなるだろう。
だけどそれは、「就職活動のゴール」であって、「人生のゴール」ではない。一心不乱に就職活動に力を注いでいればいるほど、就活や内定のことで頭がいっぱい、それしか考えられない状況にあることは想像に難くない。
しかしながら、もっと視野を広く持ってみてはどうだろうか。もちろんこれは、私が今、厳しい就職活動を強いられるような状況にないから言えることかもしれないが、それでも、新卒の内定が人生のゴールであるとは言えないと私は信じている。
入社したはいいけれど、毎日の仕事に忙殺されて心を病んでしまうかもしれない。人間関係に悩んで辞めてしまうかもしれないし、仕事をし出してみたら理想と違うことだってあるだろう。やっぱりやりたいことはこれじゃなかったと思うかもしれない。
むしろ、その方が多数派であろう。
入社しました、あとはエスカレーター式で順風満帆な人生が待っている、なんて奇跡みたいなことが起こる確率は極めて低いのだ。
少なくとも私は、新卒で入社した会社に無理をしてまで居続けなくて良かったと思っている。
あの時のほうが確かに収入は圧倒的に多かったが、生きている心地が全くしなかったのだった。
収入は少ないが、その少ない収入でいかにやりくりするかを自分で考えることができ、自分の時間も比較的多い今の生活のほうが気に入っている。
あくまでも、私の場合である。
だから就職活動を頑張らなくていい、ということではない。新卒での就職活動の成功だけが人生じゃないし、それだけがゴールじゃない、ということを言いたい。
ゴールは無数にある。
就職活動の成功は、就職活動という枠組みの中だけでのゴールに過ぎない。成功しても、運悪く失敗しても、ゴールはゴールである。
またそこから始めればいいじゃないか。悪いことばかりじゃないよ、と私は思うのだ。
親の背中を見るな
私もそうなのだが、親を超えなくてはならないと思い込んでいる節がある。
両親より立派に生き、両親より良い就職先を見つけ、両親よりお金を稼ぎ、というふうに、そこには無言のプレッシャーがある。超えるとまでは行かなくとも、せめて同等くらいの暮らしをしなければならないと思ってしまう。
親は何も言ってこなくても、我々自身がそのプレッシャーを感じてしまい、時に押し潰されそうになってしまうのである。
私の両親は、自分で言うのも何だが、立派だった。
父は、転職ではあったが大手企業に勤め、家を建て、一人息子(私のことである)を育て、大学卒業までの学費を全て払ってくれ、仕事では工場長に就任し、「老後のことは何も心配するな。迷惑はかけない。お前はお前で生きていけ」と、今は両親ふたりで老後を仲睦まじく穏やかに暮らしている。
私はというと、新卒で入社した会社から逃げ、その次の会社からも逃亡し、今はそれなりに働いているが、収入が極めて少ないため結婚は絶望的(そもそもしたくない)という始末である。私は馬鹿か。
だけど、「親を超えなくてはならない」というのは、このご時世、こだわらなくてもいいことなのではないかと私は考えている。
前述の通り、今と昔では状況が違うからである。一億総中流社会は終わった。格差社会と叫ばれている。
格差社会だからこそ、良い会社に就職しなければならない? わかるけど、そんなことない。
下流だっていいじゃないか。ええじゃないか。
これは各々の価値観の問題なので、押し付けることはできないのだが、お金を稼いで良りよい暮らしをすることだけが人生の目的ではないと思う。
格差社会にあって、価値観は多様化している。
個人の所有物はひとつのステータスだが、敢えてそれを捨てまくる人だっている。俗に言う断捨離、ミニマリズムである。
そのように、多様化した価値観の中で、親を超えるというのは必ずしもお金やより良い暮らしだけを指すものではなくなってきている。
例えば、親の仕事が忙しくてあまり構ってもらえなかったから、自分は収入を少し減らしてでも、子供にはたくさん触れ合って愛情を注いで育てたい。
これだって、ひとつの「親を超える」という形ではないだろうか。
親は仕事に忙殺されて体調を崩しがちだったから、自分はせめて健やかに生きる、というのでもいい。何でもいい。
今、就職活動をしていて、より良い就職先を見つけなければならないとの親からのプレッシャーがある、あるいは自分でプレッシャーを感じてしまうという人がいるなら、それは物の見方の一つの側面に過ぎないと考えて欲しい。
良い就職先を見つけることやお金を稼ぐことだけが尺度ではないのである。
世間体や他人の目なんて気にするな。自分は自分なのだから、自分だけの定規を片手に、自分の価値尺度で生きていけばいいのである。そしてそれは、就職活動の中だけに見い出せるものではない、と私は考えている。
強い者が勝つのではない。適応した者が勝つ
我々は人間である前に生き物である。動物である。
地球の歴史の中で、我々動物は生存競争を勝ち抜いて生き残ってきた。生物が地球に誕生し、様々な生き物がある中で、一度も親から受け継いだ遺伝子を絶やさずに進化と成長を繰り返し、その遺伝子が脈々と受け継がれてきて、今、ここにあるのが我々である。
つまり、我々は全て、長い生存競争を勝ち抜いてきた勝者なのである。
親を超えなければならないと感じてしまうのは、こういった要因から来るのではないかと私は考えている。
だから、尊い生命を蔑ろにするような自殺をするのをやめろ、ということではない。
生きていることがどうしようもなく辛いのであれば、自ら死を選ぶことは仕方のないことだと私は考えている。
私だってこの先どうなるかわからない。それも価値観のうちの一つである。
生存競争を勝ち抜いてきた生き物は、必ずしも強いものが生き残ったわけではない。強いものが生き残るのであれば、世界はクロコダイルやライオンしか存在しないはずである。
だけど、それらの強い肉食動物は、絶滅の危機に瀕している場合さえある。
その反面、生物界では底辺に位置するであろうネズミが絶滅しつつあるという話は聞いたことがないばかりか、我々が退治しても退治しても涼しい顔をしてどこからかやってくる。
なぜか。
生き物の世界では、適応したものが生き残るからである。
どうやったってライオンには勝てない。ならば、襲われないように地面に穴を掘って、そこで暮らしていく。
平地の草は熾烈な争いで食べ尽くされている。ならば、首を伸ばして樹上の葉を食べればいい。
動くと捕食される危険があるし、カロリーを消費する。ならば、そんなに食べなくてもいいように徹底的に動かなければいい。
というように。
先に述べた通り、今と昔は違う。神話は崩壊した。
今、求められているのは、時代の変化に対応する適応力なのではないかと私は考えている。
先に述べた断捨離やミニマリズムもその一例であろう。
不安定で不安な時代には、それなりの生き方がある。
闇雲に大企業への就職を目指すことは、ライオンに食べられないためにライオンより強くなろうと心をすり減らしてしまっていることなのではないだろうか。少し穴を掘れば、そこに安全な場所があるというのに、である。
もちろん、ライオンよりも強くなれればそれに越したことはない。だけど、そればかりに固執せずに、少し考え方を変えてみてはどうだろう。
生き残るのは、適応できた者である。時代の変化に伴って、自分の頭で考えて適応すること、それが肝要なのではないかと私は考える。
就職に成功しなくても、適応する手段なんていくらでもあるのだ。
まとめ 人生どうにでもなる
自ら死を選ぶことを私は否定しないが、就職活動がうまくいかないから、つらいからと自殺してしまうことは、非常にもったいないことだと思う。
まだ若いのにとか、これから素晴らしい人生が待っているから、とかいう理由ではない。多くのリアリストが言うように、これから待っている人生は苦しみの連続であるかもしれない。
だけど、就職活動で死んでしまうのだけはやめてくれ。就活を真面目にやらなかった私が言うのも何だが、就職活動ごときに、人を死に追いやるほどの値打ちはない。
優良企業に就職できなくたって、就職自体ができなくたって、生きていける。世界は優しい。
今思い描く理想の人生じゃなくたって、理想はひとつじゃないし、人生はその場面場面で変わっていく。
もし死ぬなら、その後でも全然遅くないじゃないか。
私は新卒で就職した会社から逃げ出した時、その次の会社からも逃避した時、なんて自分は駄目な人間なんだと暗澹たる気持ちになって、自ら死を選びかけた。だけど、今、生きている。
生きてることは素晴らしいなんて思わないけれど、生きている。フリーター並の収入であるとか、職場の奴が気に入らないとかいろいろあるけれど、それなりの人生を送っている。
少なくとも、あの時死ななくて良かった、とは思っている。
人生、どうにでもなっている。
就職活動がつらいのなら逃げ出せばいい、とさえ私は思う。
逃げたからって人生終わりじゃないし、そこからまた新しい人生が始まる。
就職活動に失敗した後に見えてくる新しい世界だって、きっとあるはずだ。
世界はそんなに冷たくない。
そして、人生ほど甘いものはないのだ。
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