心配ないよ、と誰かを励ましたことがあるでしょう。ええ、私も。
だけど、そう言っておきながら、何を根拠に「心配ない」と言っているのか自分でもわからなくなる時があります。
元気を出して。
わかるんだけど、落ち込んでいる相手に「元気出して」って言うのもなんだか不躾な気がするのです。
元気が出ないから落ち込んでいるのだ。
そう考えると、「心配するな」「元気を出せ」という言葉は、相手を思いやる言葉というよりは、相手のことを何も考えていない、いささか暴力的な言葉にも思えてくるのです。
他にも、「仕事がつらい」に対する「頑張れ」もそう。頑張れないからつらいのだ。
このような心配や不安というある種ネガティブな思いについて、人生にとって必要ないと思う人もいるかもしれません。
楽天的な自己啓発書には、もしかしたら「心配などという感情は人生にとっては全く無駄だから、捨て去ったほうがいい」なんて書いてあるかもしれません。
はたしてそうでしょうか。
不安や心配がもたらす、ポジティブな効果2つを以下に紹介していきましょう。
1. 不安・心配は「備え」である
不安や心配というのは、物事が悪く展開するのではないかと思い煩うことです。
今が好調であれば、「このまま良い時が続くわけない。いつか悪いことが起きるかもしれない」と考えてしまうこと。
今が不調であれば、「さらに悪くなって、最悪の事態になりかねないぞ」と憂慮すること。
もちろん、心配の程度には個人差があって、心配性と呼ばれる人もいれば、楽天家と言われる人もいる。
だけど、全く何も心配しない人なんていないし、何も不安に思わない人も決していない。
なぜなら、不安・心配というのは、人間に植え付けられた「備え」の本能だからです。
最悪の事態を予め心配しておくことで、そうならないように脳が我々に行動を起こさせているわけです。悪くならないように、対策を講じさせている。
つまりは、悪い事態が到来しないようにと未来に対して万全を期すことができるのは、心配する気持ちがあればこそなわけです。
心理的な作用についても同様。
悪くなる事態を不安に思っておくことで、万が一、実際にそうなってしまった際のストレスやショックを軽減することができるのです。
2. 不安や心配は日常の刺激である
満足感があまりにも淡白な味であるのに対し、不安や心配はずっと刺激的である。
エドワード・ハロウェル(心理学者)
心配や不安のもう一つの効果は、喜びです。
つまりは、日常の不安や心配が実は我々の刺激になり、喜びになっているという、誠に逆説的な効果です。
心理学者のエドワード・ハロウェルは、これを「不安や心配の裏に隠された喜び」と呼んでいます。
心配事があまりにも大きくなったり、夜に眠れなくなるほどになったりしては困りものなのですが、ちょっとした心配事程度のことであれば、日常におけるいい刺激になるのです。
つまらない繰り返しの毎日のスパイスとでも言うのでしょうか。
また、あまりにも心配症な人は往々にして、「こうやって凄くあれこれと心配して苦しんでいるのだから、実際に苦しむような事態が起こるわけがない」と潜在的に考えているとも言います。プラマイゼロというわけです。
いずれにしても、不安や心配は日常における良い刺激になっていることは間違いありません。
日常の中で我々は刺激を求めがちですが、自分で自分にもたらすことのできる最もお手軽な刺激が、不安や心配であると言うこともできるでしょう。
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不安や心配との付き合い方2つ
とは言え、不安や心配が自分でコントロール出来ないほどに大きくなってしまうこともあります。
かく言う私も心配症で、考え事をし始めて夜眠れないということが昔から頻発しています。
そんな時の処方箋を2つだけ紹介しましょう。
1. ひとりで悩まない
人間は社会的な動物であり、誰かと繋がっていたほうが安心する。これは絶対。
私事ですが、私はひとりが好きで、悩むときもひとりで悩みたいし、何があってもできればほっといてほしいと思っているのです。
で、誰かが悩んでいるっぽい私になぜか気づいて、「みんなでご飯食べいこうよー、行かない?」とか言ってくるわけです。
私は、とにかくいち早くひとりになりたいと思っているので、猛烈な勢いで断るわけですが、相手も引かない。
仕方なく私は行きたくないその食事会(飲み会)にしぶしぶ行くのですが、結果、別に話を聞いてもらったわけでもないし、悩みを解決してもらったわけでもないのに、終わった後に悩みが軽くなった気がするのです。
こういったことが結構何度もあり、周囲の人たちには感謝することが多かったりします。
2. 心配症の人のほうが頭が切れ、独創的である
心配したり、不安に思ったりすることは、大変なる想像力を使います。
つまり、よく言われることは、日常的にあれこれと心配したり、不安に思ったりしがちな人のほうが頭を良く使っているために、知的で独創的であるということです。
心配症の私が実際に独創的かどうかは置いておいて、不安に苛まれた時には、ふとこのことを思い出して、「ああ、私は頭がいいんだ。心配性でよかった」などとひとり悦に浸ったりしております。
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