我々にとっての美徳でもあり悪徳でもあること。
つまり、「慣れる」ということである。
どんなに幸せな瞬間にもやがて慣れてしまって、つまらない平凡の連続へと姿を変える。
逆に、難易度の高い作業に慣れることのできているおかげで、我々はさらに高次の学習をすることができる。
しかしながら、この世に慣れることのできないことがあるとすれば、それは「通勤時間」である。
脳科学作家ジョナ・レーラーは「通勤時間に慣れることはない」と言っている。
これを美徳とみなすか、悪徳とみなすか、それはあなた次第である。
通勤時間を退屈な時間とするか、刺激のある時間とするかは、各々の考え方と行動によるのだ。
だけど、あなたが今、「2時間かけて通勤することと引き換えに、狭い都会を離れ、ゆったりとした郊外に居を構える」という生活スタイルに憧れているなら、ちょっと考え直したほうがいいかもしれない。
それは長時間の通勤を強いられてまで、本当にする価値のあることだろうか。
通勤のパラドックス ―長時間の通勤はデメリットである
スイス人の経済学者A・シュトゥッツァーとB・フライは「通勤のパラドックス」名付けた研究の中で、「片道1時間をかけて通勤している人が職場の近くに住んでいる人と生活面で同じ満足感を得るためには、その人よりも40%多く稼ぐ必要がある」ことがわかったと発表した。
つまり、いかなる事情にしろ、通勤時間は短いほうが幸福感は高まる傾向にあることを示している。
通勤時間は、ストレスや社会からの孤立感と密接に関わるものであることが多くの研究によって示されている。
スマートフォンなどのモバイル端末の高性能化によって通勤時間に退屈せずに済むようになってきたとは言え、なきに越したことはない。
そう、スマートフォンで暇つぶしをしたり、読書をしたりしているのは、他にやることもないから仕方なくそうしているのであって、自由意志でそうしているのではないのだ。
通勤時間は、日常生活の中で最も苦痛を伴う行為であるという見解さえある。
にも関わらず、広々とした郊外に住みたいなどと考えていないだろうか。
少しくらい通勤時間が長くなっても構わないから、ごみごみとした狭小な都会に済むのだけは御免だ、と。
それは、要するに憧れの一種である。隣の芝生は青く見える。
なぜ通勤時間を度外視してまでも郊外に住みたいと思ってしまうのか
だけれど、郊外や田園地帯に憧れて実際に住んでみると、上記のデータが示す通り、幸福度・満足度は下がってしまうのである。自ら望んで会社から遠い場所に住処を選定したとしてもだ。
なぜか。
答えは簡単。
我々が「郊外に住めば幸せになれる」と思い違いをしているからである。
つまりは、郊外や田園地帯でののびのびとした生活のメリットを過大評価する一方、毎日長時間かけて通勤することのデメリットを過小評価しているのである。
普通に考えれば1時間も2時間も通勤にかけるのは誰だって嫌である。
だけれど、人は「自分の望む場所に住めば幸せな生活を送ることができるに違いない」と考えて、長い通勤時間が苦痛をもたらしつつあることから目を背けてしまう。
これを「焦点の錯覚」という。
住む場所や結婚、職業などの人生における一見大きな事象を過大評価してしまい、他のことが見えなくなってしまう脳の働きである。
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通勤に慣れることはない
冒頭でも紹介したが、「通勤時間に慣れることはない」という考え方がある。
我々は、だいたいどんなことにも慣れてしまう。
あんなに幸せの絶頂だった結婚式から1ヶ月も経てば、もはや日常である。入社時の気概は、入社して半年も経てば慣習に埋没してしまう。
そして、新しい家を郊外に買っても、数ヶ月経てば慣れてしまうのは自明である。感動が薄れていくのは仕方のないことだ。
でありながら、それと引き換えに選んだ長時間の通勤には慣れることがないのである。
通勤は極めて退屈な儀式である。それなのに慣れることがないなんて地獄だ。
理由の一つに、毎日予期せぬことが起こるということが挙げられる。天候もそのうちの一つである。
電車通勤であれば、毎日違う乗客の中にさらされること。その日によって駅構内の人の流れも違ったりすること。電車の遅延が起こりうること。
自動車通勤であれば、事故のリスクにさらされながら神経を使って運転していなければならないこと。クルマの流れも日によって違ってくること。事故や工事による渋滞は最大のイライラの原因であること。
通勤時間というものは、決して侮れないものなのである。「ちょっとくらいは我慢しよう」と最初は思っていても、次第に疲弊してしまうかもしれないのである。
こんなはずじゃなかった、と思う日がいつか来てしまっても取り返しがつかない。
まとめ:憧れではなく、時間・コスト・エネルギーで現実的に考えよう
私は、何も郊外に住むことをやめさせようとしているわけではない。私も都内のゴミゴミとしたところに住みたいとは思わない。
言いたいのは、盲目的な憧れだけで郊外や田舎に引っ越してしまうと、後で思いもよらない苦労が待っていることもあるということである。
例えば、田舎暮らしに皆憧れを抱くけれど、憧れと実際に住んでみることは全く違う。
私も漠然と「田舎って良さそうだな」と思っていたが、偶然の転勤によって実際に田舎に住んでみて、こんなにも不便で、意外と出費がかさむものだとは思いもよらなかった。
それと同じようなことが、広々とした郊外に住むことには潜んでいる気がするのである。
都会は不動産価格が高いと言うけれど、郊外に住んだ場合に毎月かかる交通費を勘案したらどうだろうか。
長時間の通勤は、ただ通勤するだけの時間を無駄に消費する上、交通費という出費になり、早起きしなければならず帰宅も必然的に遅くなる。
郊外の田園地帯でゆったりとした生活を送るはずが、逆に窮屈な生活となってしまうことにもなりかねない。
そう考えれば、もっと職場から近いところに住むことによって、住居は周辺環境は少し窮屈かもしれないが、時間に余裕のある生活が送れるのではないだろうか。
時間に余裕があるということは、家族で過ごす時間が増え、家事に割く時間も捻出できるということである。
新しい生活の際には、是非とも通勤時間を甘く見ないで頂きたいわけである。
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